翻訳出版書

「ミドル・パッセージ」

―生きる意味の再発見―

ミドル・パッセージ―生きる意味の再発見

分析心理ドットコム

サイトの名前は、ユングの思想や理論が、他の精神分析の理論と区別して、とくに「分析心理学(Analytical psychology)」といわれることにちなんでいます。

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精神分析ブログ

(”Midlife Spirituality and Jungian Archetypes”からの抜粋 です。)

典型的な外向型の性格で、人付き合いが大好きなアンはいつも多くの人に囲まれていました。思いやりがあって人に好かれ、ユーモアのセンスも抜群です。アンが、暗くなって落ち込んだり、深刻に考え込むのを誰も見たことがなかったし、アン自身もとくにそんな経験がありませんでした。いつも前向きに明るく生きてきたのです。

そのアンに、50歳を過ぎた頃、変化が生じました。生まれて初めて、アンは、誰にも会いたくない、ひとりでいたいと強く思ったのです。

それまでにも、自分について考えたり、自分を見つめるための機会がなかったわけではありません。でもアンは、その“必要”を感じませんでした。いつも忙しくて楽しくて、やりたいことがたくさんありました。

アンは、それまでの過去25年間、あるスピリチュアル系のグループにも所属していて、その中心メンバーでもありました。

その年の夏、そのグループのメインイベントである2週間のサマーキャンプに参加しないと彼女が宣言したとき、友人はもとより、アン自身が驚きました。

友人たちは、必死でアンにキャンプに来るように説得しようとしましたが、アンの決意は固かったのです。その理由がなぜかもわからなかったのにもかかわらず。

自分が中心になって活躍できるサマーキャンプに行かないかわりに、彼女は、ひとりきりで人里離れたアパラチアの小屋に二週間滞在しました。

生まれて初めてひとりきりになり、自分がなぜこうしているのか考えました。

昼も夜も続く静寂は、ときにとてつもない恐怖感や、たまらない憂うつ感を呼び起こしましたが、それでも彼女は、ひとりきりでいることが自分に必要だと感じました。

社交的だっただけでなく、身体を動かすことも大好きで、今までいろんなスポーツをこなしてきたアンなのに、ひとりで過ごしたこの期間、自分の身体や、自分の動きのひとつひとつが、ある意味、新鮮に感じられたといいます。

それは、はじめて、“自分自身”につながれた感覚でした。自分が知らなかった、自分の別の側面を発見するという新しい冒険が始まったのです。

※冒頭の写真は、ウィキペディアより、山に囲まれたアパラチアの牧草地帯。


運命(destiny)と宿命(fate)は、「元から定められている巡り合わせ」として、同意で使われるのが一般的ですが、ギリシア神話や深層心理学では、「宿命を変えることはできないけれど、運命は本人次第で変えることが可能」だという見方をすることがあります。

「変える」といっても、事実を変えることはできないので、じゃあ何を変えるか、何が変わるかというと、それは、わたしの理解では「出来事や事実に対する態度や捉え方を変えることによって引き起こされる、その次の展開」とでもいうものでしょうか。

たとえば、子どもは親を選ぶことができません。どんな親の下に生まれてこようが、それは、「こんな星の下に生まれてきた、自分の“宿命”」です。

あるいは、たまたま不幸な出来事に、遭遇してしまったとしたら、その“運の悪さ”もまた「宿命」といえます。

「親がああだったから、自分はこうなってしまった」とか、「あんな不幸な目に遭ったから、自分はこうなってしまった」と、誰かや何かに対する恨みつらみでいっぱいなだけでは、受け身のまま、自分の宿命に縛られることになります。そこにあるのは、あきらめだったり、絶望だったりでしょう。

運命が、宿命と同じではないというとき、この「運命」は、実現されることもあれば、されないこともあります。

実現されるかどうかは、その人次第。運命は、つまり、潜在的な、もって生まれたその人の可能性を、主体的に実現しようとするか、受け身のままで実現しようとしないかという、その選択を迫るものだといえます。

では、運命を実現させるために必要な選択とはなんでしょうか。

それは、犠牲者や殉教者としてではなく、主体的に自分で自分の人生の責任を負うのだという選択です。分析の目的のひとつは、その覚悟を決め、そのための自己吟味をすることなのかもしれません。選択の伴わない運命は、繰り返される宿命にすぎません。意識化しようとする困難な努力がなければ、人は傷に同一化したままでいることになるのです。

※このページの内容の一部は「ミドル・パッセージ」184ページに書かれているものです。

(冒頭の写真は、ギリシア悲劇「オイディプス王」より、オイディプスとスフィンクス。)

リルケの墓の写真
仏教では、「悟りの境地に達する」という言い方がありますが、ユング派の分析ではそれに匹敵する言い方がありません。

たとえば「聖なる結婚(ヒエロスガモス)」のような、ゴールや到達点のイメージはあっても、それは、「完全に成し遂げ得るもの」ではなく、「精進すれば、いつかたどりつく地点」でもありません。もちろんユングも「到着」していません。わたしたちの短い人生では、そんなことは無理なのです。

決して、ゴールには到達しないけれども、それを承知で、それでもゴールを目指して進んでいく。自分の小さな自我(自分の頭で把握している、意識できる範囲での自分。)を、少しでも、大きな自己(セルフ:無意識、自分の知らない自分を含む全体的な自分。)とつなげて広げていこうとする。

そういう意味で、分析は、ゴールに向かう過程(プロセス)といえます。

このことが、以下のリルケの詩の一節で、印象深く表現されています。

物の上にひろがって大きくなる
輪のような生を私は生きている。
おそらく最後の輪を完成することはないだろう。
しかし私はそれを試みようと思っている。
.
私は神のまわりを、太古の塔のまわりを廻っている。
そしてもう千年も廻っている。
しかも私はまだ知らない。自分が一羽の鷹であるか、一つの嵐であるか、それとも一つの大きな歌であるかを。
(尾崎喜八訳)

(冒頭の写真はスイス・ラロンにあるリルケの墓地)

「聖なる結婚」イメージ
「聖なる結婚」は、ユング派の分析がめざすゴールのイメージのひとつです。
内なる結婚、つまり個人のこころの中で、自分の知っている自分と自分の知らない自分が結婚するのです。

あなたがふたつのものをひとつにするとき、
内を外のように、外を内のように、上を下のようにするとき、
男性と女性とをひとつにし、男性がもはや男性ではなく、
女性が女性ではないようにするとき、
あなたがたは神の国に入るであろう。
―トマス福音書―
.
When you make the two into One,
when you make the inner like the outer
and the high like the low,
when you make male and female into a single One,
so that the male is not male and the female is not female…
then you will enter into the Kingdom.
―The Gospel of Thomas―


「かわいそうな恵まれた子」は、アリス・ミラー(1923-2010、ポーランド出身、スイスの心理学者で“元”精神分析家)の「才能ある子のドラマ」(山下公子訳)の中の見出しです。それがどんな子か、内容の一部をご紹介します。(原文のままではありません。)

  • 幸福な、保護された子ども時代を送ったと信じ、そのイメージをもったまま心理療法の門をたたく。
  • 成長後も才能を発揮している人が少なくなく、才能や、やりとげたことに対して、賞賛を受けていることもある。
  • 今まで手がけたことが、すべてうまくいき、すばらしい結果に終わっていたり、成功することが大事な、ここぞというときに失敗することがなかったりする人も多い。
  • ほとんどの場合、1歳でオムツがいらなくなり、1歳半から5歳のときには、上手に弟や妹の世話を手伝うような子どもだった。
  • 両親の誇りともいうべき人たちで、強靭で安定した自信があると一般には思われがちだが、実際にはそうでもない。
  • たとえ成功していても、その裏には、憂うつ、空虚感、自己疎外、生の無意味さが潜んでいることが多い。
  • 自分は偉大な存在だという麻薬が切れたり、「頂点」でなくなったり、あるいは、突然、自分の理想像に合わなくなってしまったと感じたりすると、不安感や罪悪感、恥辱感に苦しむ。
  • 十分以上の内面観察力をもっており、たやすく他の人の身になって感じたり考えたりできる一方で、自分の子ども時代の感情に対しては、まったく何の共感も示さない。
  • 自分が子どもだったころの感情世界を尊重しようとせず、規範に合わせることばかり意識している。
  • 自分自身が子ども時代にたどらされた運命に対する、真の、情動を伴う理解がなく、それにまともに向き合おうとしない。そして、「うまくやらなければいけない」という以外の、自分自身の真の欲求に関しては何もわかっていない。

この、「かわいそうな恵まれた子」が、「子ども時代にたどらされた運命」は以下のとおりです。(原文のままではありません。)

1. たとえば、情動的に不安定な母親(または父親、あるいは両親)がいる。

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2. 「かわいそうな恵まれた子」は、驚くべき能力を発揮して、このような親の欲求に本能的に、つまり無意識に感応し、応答しながら、自分に与えられた役割を果たし始める。

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3. このようにして、 「かわいそうな恵まれた子」は、親の「愛情」を確保する。子どもは、自分が役に立っていると感じ、それが子どもに存在意義を与えてくれる。

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4. 適応し、順応する能力が開発、完成されたそのような子どもたちは、自分の親の親(打ち明け相手、慰労者、忠告者、支え)になるばかりでなく、自分の兄弟姉妹に対する責任も肩代わりするようになったりもしながら、他の人間の発する無意識の欲求信号に敏感に反応する感覚をつくり上げる。

ここから先は、あまり引用したくないのですが(苦笑)、ミラーはこう続けます。「このような人たちが成長した後、心理療法を職業として選んだとしても不思議はありません。子どものころ、このような育ち方をしていなければ、いったい誰が、一日中他人の無意識のなかで何が起こっているのかを探りつづけるのが面白いなどと思うでしょう。」!

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日本をはじめとする、スウェーデン以外の国から、わざわざ、スウェーデンにいるわたしを見つけて連絡をくださる方がいます。

希少価値のある(奇特ともいえる!?)その人たちに、わたしは勝手に特別なご縁を感じてしまいます。
なんといっても、この広い地球の中から見つけてもらったのですから!

お金をいただきつつ、「クライアント未満」という表現は不謹慎かもしれませんが、やはり、どうしても主観的に「お客さん」とは違うのです。

せいぜい1年に1度か、多くても2度、ときには数年に一度、顔を合わせるだけだったり、実際には、一度も対面したことがなかったり、お互いに声しか知らない人もいます。そんな人が、わたしにとって特別な存在になってしまうのです。

この関係が、友人関係ではないのはもちろんなのですが、あえて「友達以上」というのも、たとえ接点がわずかでも、その密度が、とても濃くて、あとあとまで余韻を残すものだからです。

「なんでも話せる友人」と会って3時間しゃべり続けても、この「深さと濃さ」は味わえるものではありません。いっしょに暮らしている家族だって、しかりですし、「深さと濃さ」といえば、種類はちがっても、たとえば恋愛でも経験できることかもしれませんが、この深くて濃い接点は、恋愛とちがって、決して時間とともに、色あせたり、冷めたりすることがないのです。

そんなわけで、日本に帰国する際には、友達より“クライアントさん”と会うことの方がむしろ楽しみだったり、自分にとって大切だったりもします。

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フロイト派の精神分析は、「1週間に5回」が基本です。

1回50分~60分で、1回1万数千円がふつうですが、1万円として計算しても、1週間に5回で5万円、1ヵ月、ざっと20万円かかる計算です。1ヵ月だけやるという人は中断以外には、あまり考えられないので、半年で120万円、1年で240万円です。

びっくりするような巨額ですが、わたしは実際に10年以上それを続けた人、続けている人を数人知っています。
彼らは大富豪ではなく、また深刻な心の病をもった人でもなく、「精神分析をやっていなかったら、とっくに豪邸が建ったのに。」と笑いながら、精神分析を受けるために、せっせと働いています。
「精神分析を休めるのは、分析家が休みをとるときだけ」だそうです。
強制されるわけではないはずなので、自分から休みを取りたいとは思わないということでしょう。
精神分析が身近なものであるわたしにとっても、すごい!のひとことにつきます。

一方、ユング派の精神分析は、定期的なものだと、1週間に1度、多くても2度程度が一般的だと思います。
(不定期で、一時的に集中してやることは、あります。)
スイスのユング研究所でトレーニングのために分析を受ける人たちは、2度がふつうでした。
研究生として最低300時間というノルマがあるので、それをこなすためにも、週に2度は必要です。

ユング研究所に留学している人たちは、スイスに来る前に、すでに数百時間の分析を受けている人が多く、それはつまり、分析の価値をじゅうぶん知っているということだと思いますが、それまでに分析を受けたことがなかったわたしは、300回、毎回決まって、「あー、分析は高いなぁ!」と思いながら、分析家のところに行きました。

わたしの分析家の学生割引料金は、当時の為替レートで1回1万円でした。(料金は分析家によっても違うし、学生割引料金を設定しない分析家もいます。)1万円でできることはたくさんあります。高級レストランで優雅な食事ができるし、エステやマッサージが堪能できるし、ちょっとした一泊旅行だって可能です。1万円で買えるものときたら、言うに及びません。
その大枚を、たったの1時間に、しかもなんの形もないものに使うとは・・・。

でも、分析からの帰り道、わたしはいつも「満足」していました。
帰り道では、分析は高いなぁ、と感じなかったのです。

そしてその数日後、分析への道中には、やっぱり「あぁ、高いなぁ! 話すこともないのになぁ。」
と思うのでした。

分析というのは、本当に不思議なものです。

小川捷之氏(1938 – 1996:生前は上智大学教授で山王教育研究所を主催)は、1980年にアメリカでユング派の精神分析家による分析を受けたときのことを以下のように書いています。

精神分析は、自分自身のコンプレックスを明確にし、無意識の世界を探求することである。ほぼ1年間、いままでの自分を振り返り、自分の心の内奥のことばかり考えて暮らしてきた。

帰国後、周囲の人から、私がどんな劇的な内的体験をしたかとか何がどう変わったのかとさかんに聞かれるが、とくにこれが自分を変えたなどという夢もなければ、誇るべき体験もなかった。私の返答にさっぱり要領を得ないので、失望した人がいた。しかし、何がどうしたかはわからないが、自分の何かが変わったことは確かである。

意識世界の拡大というのは、得てしてこのような小さな体験※の積み重ねで、努力しているうちにしだいに成立してくるもののようである。しかし、自分のことを振り返ってみて、本当のところは、自分が向き合っている現実を現実そのものとして直面する「小さな勇気」の積み重ねのようである。そして、こうした意識というか、自我の冒険が私たちの意識を着実に豊かにするようである。

※「このような小さな体験」の内容は、夢分析のカテゴリーで紹介。

精神分析を受けることは、「無意識という深海の底に向かってジャンプする」ようなことだと思えますが、そのイメージにぴったりくる映像を見つけました。

撮影場所はバハマのロングアイランドにあるDean’s Blue Hole。海底からさらに202メートルと、世界でもっとも深いブルーホールだそうです。
フルスクリーンモードにして、音楽も合わせてぜひご鑑賞ください!(4分間です。)

このダイバーは、フリーダイビングの世界チャンピオン、フランス人のGuillaume Nery氏、音楽はARCHIVEの”You Make Me Feel”です。

屋久杉イメージ写真
上は、2011年8月22日の日経新聞に掲載された住友ゴムグループの全面広告からの切り抜きです。
「進化するものだけが、未来を切り拓ける。」というコピーに目が留まりました。

世界遺産、屋久島にそびえる、樹齢数千年ともいわれる巨木。

この屋久杉は、強風や多雨など、屋久島の厳しい自然環境に耐えるために、長い年月をかけて進化し、抗菌性を持つ樹脂を分泌することで長寿をかなえているそうです。

屋久杉に比べると、わたしたちに与えられた時間は、ごく限られています。それでも、わたしたちは、一生、成長、発展、進化をすることを求められています。

ユング派の分析が目指す個性化(自己実現)には、「究極のゴール」というものはありません。
仏教でいうところの「悟りの境地」に相当するものがなく、人は、一生かかっても個性化をまっとうすることはできない。
つまり、精神分析の目指すところには、ゴールはなく、ゴールに向かうプロセスがあるだけなのです。

「進化するものだけが、未来を切り拓ける。」―自分自身の、そして職業上のキャッチフレーズになりそうな言葉です。